ナヴォイ劇場

日本人がタシケント観光で訪れる人気NO1スポットがナヴォイ劇場。正式名称アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場というオペラとバレエのための劇場です。

旧ソ連時代にロシア革命30周年の記念事業として建築が進められ、第二次世界大戦によって工事が大幅に遅れたことから日本兵の捕虜も工事に動員され建設に関わったことで有名な劇場。

ナヴォイ劇場の建設に関わった日本人の振舞からウズベキスタンの人の親日感情が生まれたと言ってよく、数多くの逸話があるのもタシケント観光の人気スポットになっている理由です。

オペラやバレエの公演が行われている日であれば気軽に観劇できます。

ナヴォイ劇場の場所


地下鉄の駅だとどの駅からも少し歩きますが、周辺にはアミールティムール広場や博物館、ブロードウェイや独立広場など見どころがたくさんあるので、近くの駅を選べば散策がてら見て回ることができます。

ナヴォイ劇場の見どころ

ナヴォイ劇場

1966年のタシケント大地震でもびくともしなかったレンガ造りのどっしりとした建物。劇場前の広場も普段は閑散としていますが、公演のある日は賑やかになります。劇場右手にある案内板で公演予定が確認できます。ここで確認して観劇の予定を立てるのもいいですね。

回転木馬

この日は整備中でしたが公園の一角にメリーゴーランドも。

記念プレート

ナヴォイ劇場正面から見て左側の壁に、ナヴォイ劇場建設に関わった日本人を讃える記念プレートが掲げられています。この記念プレートの文言に、当初「捕虜」という言葉が使われていましたが、ふさわしくないということで文言が変更されたことで有名です。詳しくは後述します。

料金表

座席と料金表です。20,000スム(約200円)から一番高くても100,000スム(約1,000円)と非常にリーズナブルに観劇できます。

アリシェル・ナヴォイ

現在公演しているバレエのポスター。中に入るとアリシェル・ナヴォイ像があります。アリシェル・ナヴォイはティムール朝の詩人であり政治家で、ウズベキスタンでは文学を伝承した伝説的な歴史的人物です。

ボリショイバレエ

1,400人収容のボリショイ(大)劇場。バレエやオペラは言葉がわからなくても楽しめますし、非常にリーズナブルに本格的なバレエやオペラを観劇できるので、タイミングが合えばぜひ観てみてください。

ナヴォイ劇場にまつわるエピソード集

ナヴォイボリショイ劇場

親日の人も多いウズベキスタン。日本人に好感を持っている人が多い理由の一つが、ナヴォイ劇場建設にまつわるエピソードが広く知られているということです。

ウズベキスタンに行くなら知っておいてもらいたい良く知られたエピソードを紹介しておきます。言葉のコミュニケーションがとりにくいウズベキスタンですが、苦境の中で先人たちが作り上げてくれた日本人の信頼を貶めることがないよう尊敬と感謝をもって旅をしていきましょう。

なぜ日本人がナヴォイ劇場建設に関わったのか

旧ソ連の構成国だったウズベキスタン。ソ連は1917年11月のロシア革命30周年に当たる1947年11月にナヴォイ劇場(当時名称は未定)を完成する予定で建設を進めていました。

しかし、1939年に第二次世界大戦がはじまったため、1945年の終戦時点で大幅に工事が遅れていました。そこで日本人捕虜を人的資源として活用し1947年の完成に間に合わせようとしました。

多くの日本人捕虜はシベリアの収容所に送られましたが、建築に適した工兵が選ばれナヴォイ劇場の建設のためウズベキスタンの収容所に送られました。

食べ物の差し入れのお礼に木のおもちゃ

大変な重労働を強いられた日本人抑留者。食事も少なくおなかが空いているだろうと収容所の近くに住む子供が収容所の柵の間からパンと果物を差し入れたところ、数日後その場所に手作りの木のおもちゃが置かれていました。

そのことを母親に伝えると「日本人は勤勉で礼儀正しい。物を作るのもうまいし恩を忘れない人だ。あなたも日本人のようになりなさい」と言われたそうです。

タシケント地震でも崩れず避難場所になった

1966年4月26日タシケント市が直下型の大地震に襲われた際、街のほとんどの建物が崩壊したにもかかわらず、日本人が建設に関わったナヴォイ劇場は無傷で建ち続け避難場所として活用されました。

日本人の勤勉さや献身的な働き、日本人捕虜の人たちが関わった他の施設などの損害が比較的少なかったことから「日本人のおかげ」のような伝説的な話になっています。

実際のところ

「ナヴォイ劇場が無傷だったのは日本人のおかげ」というのは実際のところ少し違うようです。日本人が関わったのは内装や外装などの仕上げ工事がほとんどで、地震に耐える基礎や骨組みはすでに日本人が関わるころには出来上がっていたようです。

ナヴォイ劇場に掲げられた記念プレート

ナヴォイ劇場左側の壁面に工事に関わった日本兵を讃える記念プレートが掲げられています。

そのプレートに以前は「日本人捕虜が建てたものである」とウズベク語・ロシア語・英語で書かれていました。(この文言が誤解を生んでいたのかもしれませんね。)

ウズベキスタンがソ連から独立した後の初代大統領カリモフ大統領は、「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことがないし、日本人を捕虜にしたこともない。」と指摘。「彼らは恩人。間違っても捕虜と書くな。」という指示があり、1996年記念プレートが架け替えられました。

記念プレートには日本語も加わり、「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」という文言になりました。

カリモフ大統領の言葉

カリモフ大統領は、ナヴォイ劇場の記念プレートのエピソードからも分かるように、日本人に対して親しみを持っていました。その根源となっているのが母の教えだったようです。

『子供のころ毎週末母親に連れられ日本人の収容所に行っていた。行くたびに母親に「息子よごらん。あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていなくても働く。おまえも大きくなったら日本人と同じように他人が見ていなくても働く人間になりなさい。」と言われ、そんな言いつけを守って育ち、今では大統領になれた』

ウズベキスタンの桜

ナヴォイ劇場の建つ公園には桜の木が植えられています。他にも大統領官邸やタシケントの日本庭園などにも植えられています。

ウズベキスタンには日本人抑留者の日本人墓地が13か所あります。ナヴォイ劇場の建設に関わった2人を含め、ウズベキスタンで亡くなられた人を祀ったお墓です。

2000年ころまでお墓は整備されていませんでしたが、日本人抑留者と接点のあったウズベキスタンの人が大切に保存してくれていました。しかし、満足な整備がされていなかったことから当時の駐在ウズベキスタン大使の中山大使の声掛けで資料収集や募金活動が始まり、約2,000万円が集まったところでウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたいとお願いしました。

するとスルタノフ首相からすぐに「ウズベキスタンで亡くなった人のお墓なのだから日本人墓地の整備は日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任をもって行います。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取り掛かります。」と返答をいただき、募金は受け取ってもらえなかったそうです。

すぐに実行に移され、担当大臣自ら各地の墓地を訪れ具体的な指示を出し、多くの地域住民がボランティアで整備に加わってくれたこともあり、1年ほどですべての墓地の整備が完了しました。

その間、中山大使は20代・30代の若者が何とか日本に帰ろうと日本を思って毎日過ごしていたのではないかと考え、日本人墓地に桜の木を植えようと集まっていた募金の一部を桜の苗木に使うことにしました。ウズベキスタン側からも提案があり、大統領官邸やナヴォイ劇場などにも桜の苗木を植えることになり、いまではウズベキスタンで1,900本の満開の桜の木を見ることができるようになりました。