タシケントのビクトリーパーク(G’ALABA BOG’I ガラバボギ・戦勝記念公園)は、2020年5月9日に第二次世界大戦の勝利75周年を記念してオープンした記念公園です。5月9日はウズベキスタンでは戦勝記念日として毎年祝われています。
ビクトリーパークは、第二次世界大戦の勝利に対するウズベキスタンの人々の多大な貢献と勇気を示す複合施設。
広い敷地に整備されたビクトリーパークには、当時使用された戦車や戦闘機、戦闘の様子をうかがい知ることができる塹壕(ざんごう)の再現、多数の追悼モニュメントなどが展示されています。
また、敷地内には栄光の博物館(SHON-SHARAF MUZEYI)があり、武器や勲章といった戦争遺産だけではなく、戦時中の教育や医療、芸術や報道に関することまで幅広く展示されています。
展示品は歴史的資料のほか、戦争に参加した軍人の遺族や親類からも広く集められたもので、旧ソ連の構成国として第二次世界大戦に参加したウズベキスタンの当時を物語った興味深い内容になっています。
タシケントビクトリーパーク(G’ALABA BOG’I )の場所
タシケント市の北西部にあり、地下鉄ウズベキスタンライン(Uzbekistan line)のべールーニー(Beruniy)駅が最寄り。駅から公園まで少し距離があるので、市内中心部からなら直接タクシーで行くのがおすすめ。
営業時間と入場料
営業時間 | 9:00~18:00 |
公園入場料 | 30,000スム(約300円) |
栄光博物館入場料 | 50,000スム(約500円) |
撮影料 | 30,000スム(約300円) |
入場料は外国人価格です。現地の人の8倍という値段設定なので表示されている価格を見て驚くかもしれませんが、これが通常価格です。撮影料はカメラを持っていると撮る撮らないにかかわらす徴収されると思っておいた方がいいです。
公園エリア
公園に入ってすぐのところには第二次世界大戦当時に使用されていた戦車や戦闘機などが展示されています。戦車の上に乗るのはいけないそうなのですが、子供はオッケーみたいです。
見慣れない軍用車両や砲火器も展示されています。柵とかががないので間近で見たり触れたりできるのがいいですね。
出征するための駅を再現したもの。それぞれ家族との別れを惜しみながらこのような列車に乗って出征されたんですね。
中央の広い通路には、ウズベキスタンが第二次世界大戦に大きく関わった1941年から1945年までの年号が左側に並び、右側にはその様子が描かれた石板が並んでいます。
塹壕が再現されていて、実際の兵士の目線を体験できます。戦車や戦闘機も配されていているところがすごいです。
戦時の塹壕内の様子をうかがわせるブロンズ像。戦車の大砲に直接狙われています。
壁には負傷兵を運ぶ軍人の様子が。
「ウズベキスタンの不屈と勇気の瞬間」と題された石板が掲げられています。
ビクトリーパークの象徴になっている記念碑。土台部分には「親愛なる魂
・平和と自由のために犠牲になったヒーローたちを母国は忘れない」という内容の文言が記されています。
栄光の博物館
記念碑の下に栄光博物館の入り口があります。壁面には戦時中の生活の様子が描かれた彫刻があります。
ウズベキスタンから動員された兵士たちの多くは最前線に立って戦っていました。
パネルや映像、実物などを利用して様々な展示方法がされています。文字表記はウズベク語と英語なので、わからない人は翻訳アプリなどを利用すると理解が深まります。
ナチス進軍の様子。
医療に関する展示。
教育に関する展示。
プロジェクションマッピングも使われていて、かなり先進的な展示をしている博物館です。
ウズベキスタンの大統領シャヴカト・ミルズィヤエフ大統領は栄光博物館を訪れ「戦争の恐ろしさを理解するには歴史から学ぶことが重要です。博物館はこれの基礎であり、歴史と現在の間の架け橋となるはずです。」と述べています。
ウズベキスタンと第二次世界大戦
ビクトリーパークへ訪れる前に、ウズベキスタンの第二次世界大戦との関わりを知っておけるように簡単に解説しておきます。
1941年6月22日ドイツがソ連に侵攻した際に、ソ連の構成国であったウズベキスタンも参戦することを余儀なくされました。
ヒトラーの軍事計画は短期決戦で電光石火のスピードで戦争が始まったため、ソ連はスターリンが最高司令官に就任し、国のすべてを防衛の利益に従属させ国民経済を完全な軍事支配下に置きました。
ウズベキスタンの人々は、独立運動の暴力的な弾圧や宗教的信条に対する迫害などの記憶から、当初はソビエト政権を守ろうと考える人は少なかったようですが、ファシズムから守るだけでなく、なによりウズベキスタンを別の侵略者から守らなければならないという道徳的根拠を優先させ戦いました。
ドイツの侵攻が早く劣勢だったソ連は、主要都市の防衛企業などを最前線から移転させる必要に迫られ、多くの工業企業や教育機関をウズベキスタンに送りました。町民に加え多くの農民が軍事事業の立ち上げに関わり、非常に短期間でフル稼働の生産体制が整えられました。その後軍事企業は、週6日、1日11時間の労働を労働者と従業員に強制し、自主退社をした人は懲役5年から8年にするなど労働規律違反に厳罰を与え、軍需品不足に陥らないような体制を整えていきました。
ウズベキスタンに避難してきたのは企業だけではありません。ナチス占領地域のロシア、ウクライナ、ベラルーシから100万人以上の人々が避難し、ウズベキスタンは135,000平方メートルの土地と住宅を提供しました。また、2人以上の孤児を養子として受け入れた家族も多く、人間性と思いやりを示しました。
1945年5月8日にナチスドイツが無条件降伏するまでに、ウズベキスタンからは195万人が戦争に動員されました。多くの兵士は最前線に送られ勇気を示し、4人に1人は帰国することができませんでした。
ウズベキスタンが戦場になったわけではありませんが、ウズベキスタンの献身的な国民性が第二次世界大戦におけるソ連の勝利を下支えしました。